猿沢観光案内

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名所・名跡・祭事
伝説・昔話

名所・名跡・祭事

猿沢羊羹

長年、猿沢名物として多くの人に愛され、2014年に惜しまれつつ閉店した千葉羊羹屋の明治煉羊羹(通称:猿沢羊羹)。
地元の主婦らがその味を思い出し、自分たちが美味しいと思えるものを、とことんこだわり作り上げました。
昔ながらの製法で作り上げ、保存料、添加物等一切使用しない、小豆本来の味にこだわった猿沢羊羹です。(2017年10月から販売)

製造者 猿沢地区振興会
電 話 0191-48-3366
工 場 一関市大東町猿沢字山崎23-2
販売店 デイリーヤマザキ 大東猿沢店

県指定天然記念物 ホウキカヤ

イチイ科常緑の喬木「榧」。根本直径1.9m、高さ23m、枝張りが21m。県内最大木で樹齢700年くらい。県指定文化財。

所在地

〒029-0431
岩手県一関市大東町猿沢字伊沢田南沢
(和賀久栄氏所有)

岩手ナチュラル百貨店より抜粋

石割松

国道343号、新渡戸橋の近くに大きなミカゲ石を真中から割り、大きな枝を横に広げている赤松がある。樹齢約280年。石の下にもう1本あり、樹齢約160年という。

所在地

〒029-0431
岩手県一関市大東町猿沢字袋沢地内

湯王の滝

猿沢川源流部の滝で地元住民で管理、清掃作業を行っている。また、祠を祭り毎年旧暦9月27日にお参りをしている。

及善だんご屋 さるさわだんご

昭和30年代から、地元の米を使って昔ながらの製法で作るだんご。地元の地名を冠した特産品として、多くの人に愛されてきました。
食感はもちもちで甘さ控えめのしょうゆダレが別袋でついている。添加物が入っていないため日持ちはしませんが、冷凍してレンジでチンをすれば、またモチモチのまま食べられる。猿沢名物「さるさわだんご」絶品です。

※H31年3月に閉店

所在地

〒029-0431
岩手県一関市大東町猿沢字町方45
及善だんご屋(店主:及川慧義氏)

下猿沢伊勢神楽

ドンドンドンドコドンコという音と笛の音、下猿沢に伝わる伊勢神楽。今から約160年位前。興田の堀合部落から猿沢の岩ノ下へ婿養子に来た忠吉さんという人が、小向、板倉の若者を誘い村祭りに舞ったのが始まりと伝えられています。下猿沢の方々はもちろん、猿沢小学校では4年生になると、その舞を先輩から受け継ぎ、運動会では4年生から6年生がその舞を披露しています。

管理者:下猿沢伊勢神楽保存会 代表 及川吉治

水神さんさ

盛岡さんさの雄大な太鼓の音と踊りに魅せられて、今から25年程前、ふるさと創業事業の一環として盛岡さんさの指導のもと、「水神さんさ」を立ち上げました。子どもから大人まで、男も女も参加できる水神さんさは地域を一つにする大きなちからを持っています。

猿沢スイセンロード

佐藤友信さん(猿沢字町方)が、郷土の美化と交通安全を願い植えはじめたスイセン。植栽を初めて20年以上が経過し、総延長は45キロを超えるそうです。少しずつ、1株1株植えてくださった佐藤さん。春になると沿道にきれいに咲くスイセンを見ると、心が温かくなります

関連情報

猿澤神社(村社)

祭神、大国主命・大津山見命・加遇突智命の三神を祀る猿沢神社。金野観明氏(元神主)所蔵の棟札に、新山大権現並に愛宕山大権現の二つの大権現の鎖守、大永3年(1523)柴山舘の山に祭り、同年9月山口より飯森山へ移し祀るとあり、御維新になって字上の洞に猿沢神社として祭ったという。
祭日の10月の第3日曜日には御神輿様が清水川から猿沢の町を通り、倉林迄お降りになり、峠神楽、伊勢神楽がお供をする。正面の石段は何段あるのでしょうか。皆で数えるとその数はバラバラ。菅ノ沢の菅原一成さんのふるさとの覚書「猿沢の風韻」によると、その数は111段とのこと。

所在地

〒029-0431
岩手県一関市大東町猿沢字上の洞地内
管理者:猿沢神社総代会

石清山観福寺

「新義真言宗智山派石清山観福寺」 
みちのくのロマンにあふれた「伝説、義経北行コース」で有名な観福寺。落人の義経一行を泊めてもらったお礼に、郎党の亀井六郎重清が残していったと伝えられる古い「笈」(おい)が現在も残されている。

所在地

〒029-0431
岩手県一関市大東町猿沢字野田前37
管理者:佐伯氏

早池峰大償野口斉部流 峠山伏神楽(一関市指定無形民俗文化財)

平成26年に伝承150周年を迎えた峠山伏神楽は猿沢を代表する郷土芸能です。地区内の金山の全盛期に多くの人が入り込み風紀が乱れたために、地区の青年たちが現在の花巻市東和町の晴山神楽に教えを受けて習得したものが、現在も受け継がれています。

管理者:峠山伏神楽保存会 代表 村上義晴


円通山龍泉寺

曹洞宗に属し、開祖は応仁2年(1468)越後国岩船郡山辺里村耕雲寺四世湖海珊和尚という。
鐘楼堂は本村の名匠周造の作で、県下まれにみる建造物である。

所在地

〒029-0431
岩手県一関市大東町猿沢字地ノ神31

愛宕権現水

愛宕山のふもとにある「愛宕権現水(あたごごんげんすい)」は古くから自然の水 が山から流れており、地区住民の喉を潤してきました。
この権現水は軟水で、コーヒーや水割りにとても適しており、地元自治会有志の皆さんが管理しきれいに整備されている水汲み場には、地元の方はもちろん、県外からも水を汲んでいる方々の車が多くみられます。

所在地

〒029-0431
岩手県一関市大東町猿沢字宿通向地内


名所・名跡・祭事
伝説・昔話

伝説・昔話

はじめに

 猿沢に伝わる昔話と伝説を調査しようと分担して調査しましたが桃太郎、猿蟹合戦、ヘッタレヨメゴ等すでに発表されているお話しが多くありました。ここでは、猿沢に関係のあるものを掲載しました。

祖父母から子守歌がわりに聞いたり、遊びに行った家の年寄りからきいたりしたといいます。大正から昭和初期にかけては裁縫を教える先生から、正月にはコタツで近所の子供たちが集まりじいちゃ、ばあちゃから聞いたといいます。子供の頃聞いた昔話は大人になっても忘れないものだと・・・・・。

《四畳石物語》

 宝暦2年(1752)の年は春以来雨が降らなく日照り続きであった。当地方の百姓達は作付も出来なく、飲料水にすら事欠く始末であった。この間幾度か神仏に祈願の行事もありひたすら雨を待ちこがれたのであった。しかしその効果が見られなかった。

 困り果てた農民達は、湯王の滝に当時の法印さま(神仏に仕える人)を依頼して一週間の祈祷をした。しかし天はびくともせず農民達に幸を与えてはくれなかった。そこで農民達はむぎわらで「じゃ」(龍)の形を作り部落総出でそれをかつぎ蓬莱山に登り、かかり火をたき一週間の祈祷に移った。やがて満願の日、その「じゃ」をじたじたに切りつけた。するとむぎわら作りの「じゃ」が血を流してその場にどっと倒れた。不思議やその瞬間、天にわかにかき曇り雷鳴とどろきわたり天もわれるばかりの雨模様となった。「それ、雨くるぞ」と歓喜した部落の人々はは我先と下山した。やがて渇ききった大地にいやという程強く降り下山する人々の道を防ぎ沢々はどっとあふれて流れ出した。この流れが強く急にくずれた処が現在も草木育たず急な畦になり「くずれ」の地名で当地方の人がよんでいる。この年は、さいわい作付けが出来豊作となり、これも神の加護と感謝のおかげで農民は黄金花咲く田園を見ながら老若男女蓬莱山に御参りし神楽を舞い夜を徹して祝った。これを祈祷した場所は畳四枚程の石があり、石には龍の血跡があったという。人呼んでこれを四畳石といっている。

《座敷わらしの話》

 昔、清之丞さんの先祖が買ってはいった家は、猿沢でも古い一番大きな家だった。
 その家は間口15間半(約28m)、奥行9間半(約17m)という大きな家で現在の猿沢中学校の体育館ぐらいはあった。それで、台所のうしもづ柱でも1尺5寸(約45.5m)四方の太い柱だった。

 昔、葛西公と伊達公が争いをし、葛西公ははなはだしく敗け、ちりぢりばらばらになり百姓になって下った者がたしかこの家にはいったようだ。家には大小(大刀と脇差)があって、その刀のつばには桐の紋章が刻んであり、それが座敷の鴨居にささっていた。それから陣笠もあるし、『論語』も昔からあり現在もある。という事からこの家はむかし武家の家であったと推定できる。

 そんな大きな家に一生涯行った事も見た事もないという納戸という座敷があった。
 そこに昔、座敷わらしがいた。話には聞いているが見た事もなにもない。

 昔、伊沢田屋敷に市郎右エ門という、たいへん繁盛して村の神社(猿沢神社)の祭礼を始めた肝入(今の村の長)がいた。それで現在も首藤家の親類が神社の祭礼の際、先陣をつとめている。
 その市郎右エ門という人の子孫に少し気違いじみた者がいた。それでその者を世の中に出さないためにかくしていたので世の中の人達は見た事も逢った事もなかった。
 ということからその家には座敷わらしがいるといううわさ話までながれた。正体をみた者がないので皆に不思議がられた。その者は食事をする時でも影の方で食べて人目にあわせられないような座敷わらしだったらしい。

《湯王の滝で雨乞いをした話》

 今から50年から60年前、猿沢川には大雨でも降らないかぎり川の水が流れなかった。それで下猿沢という所は、毎年のようにかんばつが続き水が不足で農家の人達は稲作の不作に悩まされた。そこで、下猿沢の農家の人達は、なんとかして雨を降らせたいため部落の人達が寄り合い、話し合いをした結果わらで龍をつくり湯王の滝まで背負っていって雨乞いをした方がよいということになった。ところがその龍をつくるには不作で稲のわらが取れないため麦のわらを持ち寄ってつくった。その大きさは、体長20メートル以上あり胴まわりは60センチメートルぐらいはあったので持ち寄ったわらはたいした量だった。その龍をみんなで背負って湯王の滝まで持っていく時、清之丞さんの父・清平さんはその行列の一番先頭にたち天狗の面をかぶり神官様の赤衣をかりて、おへそくを持ち高い下駄をはいて下猿沢から町(現在の公民館のうしろの道)を通って行った。湯王の滝に着くと、そこで雨乞いをして龍を切断したところ御利益があったようで大雨が降り下猿沢の田にも水をかけることができた。そして、その年は田で稲作を作る事ができ農家の人達はよろこんでおどり上がった。

 なぜこのような雨乞いを考えついたかというと、大昔、やはりわらでつくった龍を湯王の滝ではないが蓬莱山の頂上まで背負っていって切断したところ御利益があったという事なので、それをまねておこなったものだそうです。
 この雨乞いは、たいしたみもので下猿沢神楽に大蛇切りの舞いがあり、下猿沢の小向で御神楽を舞った時、大蛇切りを山根の昔のおじいさんが舞った。ところが不思議にも雨が降ってきたそうです。将来、当地猿沢でかんばつになり水が不足になった時、このような雨乞いとか大蛇切りの舞いがみうけられる事でしょう。

※雨乞いとは・・・
 ひでり続きの時、雨が降るように神仏に祈ること(岩波 国語辞典より)

《愛宕神社の話》

 愛宕様というのは、愛宕神社の事で大町裏の村上護朗氏の氏神様になっている。祭日は6月24日と9月24日の年2回で作神様になって、むかしは随分栄えた。表参道、裏参道には両側に杉や松の大木があって急な坂道になっていたが、今は木を切ってしまって残っていない。また、道らしい道も荒れはててしまって歩くのも精一杯である。むかし神社の回りにも杉や松が繁っていた。いままであった社の上が元の社であったが嵐でこわされ、その後、建てなおされた。そこから四方を見渡すと峠(江刺界)の山並から室根山あるいは、寒沢川とか蓬莱山あたりも眺める事ができるのでとても景色のよいところである。寒沢側へ下るところに相撲場の跡がある。そこは昔、テレビもラジオもないので当時若い人達が御縁日に相撲を取ったところである。今から2代から3代前のおじいさん達が行ったものだそうだ。そのようにして栄えた時は、相撲をとって碁打ちなどして腕自慢をしたし神楽とか鹿踊りも行った。現在の猿沢神社(村社)のお祭りのように栄えた。建物の下方さんきょう沢にはきれいな水が流れていた。岩と岩の間から湧き出て、その水が薬になるといって病人があれば、そこに来て水を汲んで家さ持ち帰って飲ませたそうです。以前、さかや(相沢信夫氏)のおじいさんが病気になって床についていた時、その水を飲みたいと言ったので汲みさ来たそうです。大町裏の千田丑男さんのお父さんである敬一さんが生きていた時、よくこの辺に来てその不動様などを調べた。昔、ここさ水湧いで御縁日にはそこの湯治場をこしらえてお湯さ入ったものだそうです。その跡らしいものが不動様の下に平らになって残っている。不動様を建てたのは山口元左エ門という人の名前がある書に残っている。(その人は、今のまえやちの御先祖の人ではないかと思われる。)一説にはそこから柴山城へ水をもっていったのではないか。(故千田敬一さんが語っていた。)

 愛宕様に上る道は四方からある。まず山口(阿部善吉氏)から登る道路(さんきょう沢へ行くのも同じ)。2つめは七ツ森から登る道路、3つめは館(菊池徳治氏)の方から、(柴山城へ登るように)それと峠から登る方は、おばす(伊藤長一氏)の所が登り口になっている。栄えた時は、子供達も山へ登ってお宮で峠の神楽を舞った。

 阿部善吉氏が幼い時、柴山城下四方に渡ってドンドコドンという神楽の囃子が聞こえたものだと語ってくれた。最近では、終戦時までおこなっていたようです。
 この愛宕様は作神様だというので地域の人達みんなが信仰した。(百姓の神様である)豊作を願って祈祷したものである。

《食わず女房》

 スワッペリな若い男がいて、回りの者が女房もらえというが、「女房貰うなら口のない方がいい」と言ったら、そんな女いるわけがない」と言われたから「ほんならいらね。食わすのがいだましい」と言ったと。あるかないか世話してみよう。ところがある所に、口のない女がいだど。おふるめえゃをして嫁にしたと。器量良しの女だったんが、女房は何も食わんかった。ところが米ビツがどういう訳か減ってくる。俺一人で食っているのに、どうしてこんなに減るのかおかしいと思って、この女がどこかに売るかしているんじゃないかと思って、ある日朝早く出かけて、途中からもどって隠れていだど。そしたら女房が大きな鍋にまんま炊いて、髪を振り分けて、髪の真中に、まんまを握り飯にしてポイポイ投げ込んだど。それを見られたと思った女房は、だんなに「口のない女がいるか」と言っておっかけてきたと。だんなは逃げて逃げたど。
 そしたら菖蒲とヨモギのドブがあったのでそこさ入ったど。そしたら、菖蒲とヨモギの臭いで、人間の臭いがしながったど。それで5月5日の日に、軒下に菖蒲とヨモギ吊るすことになったんだど。

《華京院の狸物語》

 むかし、大町裏(旧猿沢小学校峠分校舎のあたり)に華京院というお寺がありました。そのお寺ではとても困ったことがおきていました。住職がおらず、新しく和尚さんが来ても、次々とどこかへ消えてしまうのでした。そこで村の中には、怪物のしわざだといううわさがひろがりました。
 困り果てた部落の人々は、なんとかして和尚さんがたの行くえやその怪物の正体をつきとめたいと思っておりました。
 ある冬の夜のことです。部落の若者たち数人が真相を確かめようとがらんとしたお寺に集まりました。夜もふけ炉のまきも燃えつきるころ、どこからともなく奇妙な音と泣き声が聞こえてきました。
 若者たちは、これぞとばかり火ばしをやいて待ちましたが、間もなく旅のいでたちのひとりの乙女が戸を開けたのでした。それはそれは見目美しい乙女を炉のそばにまねいて座らせ、なごやかに語り合いました。やがて、夜も白々と明ける頃、乙女は背負っていた大きなふろしきしとねに横になろうとしました。その時、ここぞとばかり若者達は、真っ赤にやけた火ばしをそのふろしきめがけて投げつけたのでした。するとふしぎふしぎ、どろ~んどろ~んと乙女はけむりとなって消えてしまいました。そして、その時、寺のうら山でギャーツという無気味な怪物の鳴き声がしたのです。やがて、翌朝若者達は寺のうら山で血を流し、やけただれて横たわっている大きな狸をみつけたのでした。その後、華京院の和尚さんはなにごともなく永住することができるようになりました。部落にはふたたび平和がかえってきました。

【資料:「猿沢の文化財」より】

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